2012/03/11
■開業つれづれ:十五名の震災殉職医師と終わらなかった世界
東日本大震災 十五名の震災殉職医師と終わらなかった世界中間管理職
あれから一年。
世界は多くのものを失い、そして多くの人を失った。それなのに、世界は終わらなかった。
一年前の今日、私の診療所は午後の診療の最中で、比較的患者さんが少ない時間帯だったが、それでも五組ばかりの患者さんが診察室と待合室にいた。
最初に今までに感じたことがない激しい揺れを感じた。後から考えると、その揺れはまだ初期微動であった。さらにその後、まるで建物が動物の上に乗って歩いているかのような、乗り物酔いがするような生理的に気持ちの悪い揺れを感じた。
私は激しい揺れの中で診察の手を止めて、診察中の患者さんと目を見合わせた。私は動揺していた。そして、あぜんとする診療所の責任者である私よりも優秀な事務と看護師たちがてきぱきと患者さんたちを診療所の外へ誘導した。診療所の中の照明が大きく大きく揺れていた。
五分だっただろうか、十分だったのだろうか。ようやく地震がおちついてきたところで私とスタッフは診療所に戻った。一緒に戻った患者さんに診療の中断を謝りながらそそくさと処方箋を出した。電子カルテは動いていた。看護師が待合室のテレビの情報で「津波がすごいみたいですよ」と診察の合間に私に告げた。多くのものが世界から失われている瞬間だった。私は黙々と診療をこなした。余震にもかかわらず患者さんの数は減らず、いつも通りだった。私の知らないところで終わりが始まっていた。
地震による津波の被害が大きく報道され、福島原発は決定的な損傷を受けた。地震後の報道を見て、多くの人々は色々な思いに駆られたであろう。誤解を恐れずに正直に話をすると、私はその時に、
「世界が終わるかもしれない」
と思ったのだった。単に多くの人が被害を被っただけではなく、世界が終わるかもしれない、と私はじめて感じた。
もしもその時に私が被災地にいたら、と考えずにはいられなかった。人として。親として。被災者として。支援者として。医師として。
そして、私は終わりが始まっている場所にはいなかった。
私が個人的に日本医師会に確認したところ、今回の大震災で医師は十五名死亡あるいは行方不明になっているとのことだった。岩手県六名(死亡者二名、行方不明者四名)、宮城県九名(死亡者九名)である。
震災殉職警察官三六人と比べて、全く報道されていない医師や医療関係者の被害者がいることをここに明記したい。震災殉職医師としてあえて書いておく。いままで地域に根ざし、各々の土地の医療を担ってきたであろう人々である。残念ながら、そのように被害に遭われた医師に対する今までの感謝はあまり聞かれない。
繰り返されるのは「医師が足りない」「病院設備が復旧しない」という報道ばかりだ。そこにあるのは単なる機能の一部としての医師だ。「いままでありがとう」ではなく「足りなくて困った」という遠回しのクレームだ。医師はいなくなっても感謝はされず、不便に感じるだけのものなのだ。
誰かが「絶対安全」と言って原発を作っていった。誰かが今の日本の災害時体勢を作った。誰かが天罰が下ったと言った。
それは主語が自分ではなかった。今の社会を作った誇りと、後悔と、懺悔の全てが他人事のようだった。
”私たち日本人が「絶対安全」と言って原発を作っていった。私たち日本人が今の日本の災害体勢を作った。私たちが作った社会に天罰が下ったのだ。”もっと天罰を受けるのに適した人が別にいっぱいいるような気がするが。
原発が暴走し、医療が崩壊し、地域が消滅した。世界は終わるかもしれなかった。
でも、終わらなかった。どこかで連鎖するドミノ倒しが止まったのだ。押しとどめたのは、あるいは十五人の医師の犠牲だったかもしれない。一万九千九人もの死者、行方不明者が食い止めたのかもしれない(平成二四年三月一〇日時点、警察庁まとめ)。今生きている人たちの気持ちが崩れる世界を押しとどめたのかもしれない。単に自然がちょっとだけ手加減しただけかもしれない。今でも大陸は動き続け、地震を引き起こし、一億年たったら北米とアジアは出会い、アフリカは裂け、南極は一人孤立する。
そして何年か、何十年かの後、東日本大震災が教科書に載るだろう。世界金融危機もテストに出るし、もしかしたら医療崩壊も関係者の愚痴ではなく、ひっそりと歴史的な事柄として教えられるのかもしれない。
これから私たちは何を考え、何を考えず、そしてどのように変化しているだろうか。一年前と同じ診察室で、同じ患者さんと同じ会話をしながら、もしかしたら崩壊を食い止めた十五名の亡くなられた医師と世界の終わりを考える。
この終わらなかった世界の続きで。
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コメント
福島県の殉職医師
今回コメントしようかどうかだいぶ迷ったのですが、福島でも震災、津波で殉職された医師がいたことをお知らせしたくて筆を執りました。
その先生は加藤東一郎先生という方で、南相馬市の海岸近くの老健施設の施設長をされていました。地震と同時に津波の到来を予知し、地震直後から人手が無い中津波が来るまで職員と力を合わせて入所者を避難させ、自身も津波で半身ずぶ濡れになりながら入所者避難のために奮闘されたそうです。全入所者を避難させてようやく疲労困憊で自宅に戻ったのちに倒れ、ご高齢ということもあってかそのまま6日後3月17日にお亡くなりになってしまいました。
間違いなく震災での殉職医師と考えてよろしいと思います。
加藤先生という名前で、もしかしたらと思われた方はするどいですが、じつは東一郎先生はあの県立大野病院事件の加藤医師のお父様になります。加藤東一郎先生は東北大学を卒業後、関連病院で勤務、そして地元の相馬市で産婦人科医院を開業され長年相馬市の産科医療の中心を担って来られました。しかしあの大野病院事件により息子さんの応援のためやむなく医院を閉院し、幸いにして勝訴とはなりましたが再度の産婦人科医院再開は難しく老健施設の施設長として勤務されていました。
お亡くなりになった時点ではまだ震災、津波、原発事故の混乱の真っ最中でもあり、葬儀も身内だけごく簡素になされたそうです。全く相馬市にとって無くてはならい惜しい先生を亡くしてしまいました。
県立大野病院事件がなかったなら、このような結果にはならなかったかもしれません。つくづく残念です。もちろん他の医師が施設長だったとしても同じように頑張ったとは思いますが、加藤医師ご家族にとっては理不尽な裁判の上にご家族のご不幸と辛いことが重なってしまいました。
加藤先生には心より哀悼の意を申し上げます。
2012/04/21 23:12 by hikoboo URL 編集
情報、ありがとうございます
このような小さなブログですが、見て下さる皆様がいてくれて続けられています。今後ともよろしくお願い致します。
2012/04/29 14:39 by 中間管理職 URL 編集
SAI1856
私は民間災害救助隊として、計36名の潜水士と共に岩手、宮城に入りました。医療関係と共に行動もしておりましたが、あまりの状況の悪さ、絶望感、そして気温により、亡くなられる方もおられました。夜のひと時に、ある高齢の先生に言われました。大事な人がいるなら、今すぐ去った方がいいと・・。私にはいません。少し間が空き、そんな人間はいないよ。では、明日君が引き上げたご遺体が、一番気になる人だと思ってみなさいと・・・。翌朝からの潜水作業が始まり、冷たい船外の出る。入水前なのに心拍数のアラートが鳴りやまない。昨晩、老医師に言われた事が頭から離れない。水中に入りご遺体を捜索する必要はない。海面から下を覗けばそこら一帯はご遺体だらけ。一人の女性と思われる方を収容するとき、涙でゴーグルが曇る。呼吸も整はない。
船上に上がり、気が付くと「千亜紀、千亜紀」と名前を呼んでいた。数年前、私の間違いから別れてしまった彼女。大事なんだと気づかされた。
数日後、老医師にありがとうを伝えに仮設テントに向かった。しかし、その前日に突然倒れ、そのまま亡くなられた。我々のチームは見返りを求めない。だから本名を名乗る必要等ない。
私は、その老医師の名前を誰も知らない事に驚いた。私のであった唯一の医師だと思う。
2015/01/10 19:44 by SAI1856 URL 編集
NoTitle
いろいろなところで色々な方がそれぞれに経験をされているのだと思います。
その場所にいたから辛かった人もいるし、その場にいる事が出来なかったから辛い人もいるでしょう。
日本のみんなが無傷ではいることが出来なかったのが311なのではないでしょうか。
311は私たち医療業界も多くの事を考えさせられました。この終わらなかった世界で、精一杯に生きて行く事が残された人間の責任なのではないでしょうか。こんな辞世の句を思い出してしまいます。
散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)
これからもよろしくお願いいたします。
2015/01/17 01:03 by 中間管理職 URL 編集