2009/06/16
本当にショックでした…。
びっくりです。
過酷極める中小企業社長業…三沢光晴さん急死2009年6月15日16時57分配信 夕刊フジ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000016-ykf-spo 13日の試合中に頭を強打して亡くなった
人気プロレスラー、三沢光晴さん(享年46)の所属団体「プロレスリング・ノア」は、事故翌日の14日も福岡市内で予定通り興行を開催した。社長兼看板レスラーの三沢さんの立場は、プロ野球のプレーイングマネジャー(選手兼監督)を上回る過酷な重職。とりわけ、今年3月にテレビ地上波中継を打ち切られてからは金策に頭を痛めていたという。「不況下で苦悩する中小企業の社長さんさながら」との指摘も聞かれる。
大黒柱の三沢さんが亡くなったのは13日、広島での試合中。ノアの一行は14日に福岡へ移動し、ボウリング場を併設する「博多スターレーン」に観客2600人(超満員=主催者発表)を集めて追悼興行を敢行した。
あの力道山の次男である百田光雄副社長(60)は「開催に踏み切った一番の理由は、三沢社長自身が満身創痍の状態でも必ずリングに上がってくる人だったから。我慢強く、泣き言や自分のけがのことを一切口にしなかった。選手全員で話し合い、その三沢社長の遺志を継ぐ意味でも、決行すべきとの結論に達した」と説明した。
「満身創痍」は決して大げさではない。特に、三沢さんが首に“爆弾”を抱えていたのは周知の事実。一昨年1月に途中から試合の記憶をなくすほどの激闘を演じ、試合後に直行した病院で「頚椎(けいつい)ねんざと脳しんとう」と診断されたことも。事故が起こった当日も「肩がきつい」と漏らしていたという。
それでも看板レスラーの宿命で、おいそれと欠場するわけにはいかなかった。プロレス界全体を見渡しても、ジャイアント馬場さん(享年61)がこの世を去り、アントニオ猪木も第一線から退いた今、三沢さんは残された数少ないスターのひとりだった。
【TV地上波打ち切られ】 社長業の心労も重なった。1999年にジャイアント馬場さんの死去による内部抗争に伴い、全日本を脱退した三沢さんが2000年7月に旗揚げしたノア。資本金1000万円で従業員は30人という企業だ。
日本では米国で大人気のWWEのように株式を上場している団体はなく、全日本、新日本とともに「メジャー」と呼ばれるノアでさえこのような中小企業。他の団体は、零細企業といっていい。かつてのプロレス人気に陰りが見える中、三沢さんはこの不況下で苦しむ一般の中小企業の社長同様、金策に必死だったという。
今年3月、日本テレビがノアの地上波中継を打ち切った。現在はCS放送の「日テレG+」と「サムライ」が中継しているが、「放映権料が年間1億5000万円とも2億円ともいわれた地上波に比べると、CS放送のそれは微々たるものでケタ違い。三沢社長は大幅な収入減に頭を抱え、体調が悪いとも漏らしていた」(プロレス関係者)といわれる。
日テレ関係者が、その経緯をこう説明する。「ウチは昨年9月の中間連結決算で赤字に転落してから、『費用対効果』を旗印に思い切った経費節減を断行しています。巨人戦のナイター中継を減らし、メジャーリーグの放送権からは手を引きました。ノアの地上波打ち切りも同じ流れの中にある」。100年に一度という不況が、日テレの財政を圧迫。間接的に中小企業のノアを資金難に陥らせたという構図だ。
【死因は頸髄離断】 くしくもこの日、ノアの会場と同じ福岡市内にあるヤフードームで、巨人がソフトバンクと戦っていた。球界きってのプロレスファンとして知られる原監督は試合前、「組織をまとめる上で、自分のことだけを考えてはいられないという意味で(社長と監督には)相通ずるものがある。断腸の思いで天国へ行かれたのだと思う。何度も面識があったわけではないが、同世代の男として尊敬する人物」と三沢さんの死を悼んだ。
広島中央署の調べによると、死因は頭部を強打したことによる「頸髄(けいずい)離断」と判明。事故直後に心肺停止状態に陥り、蘇生処置のかいなく、帰らぬ人となった。満身創痍ながら看板レスラーとして“強行出場”してきたことや会社経営の心労が命を縮めた可能性もある。
サラリーマン諸氏、特に中小企業の社長さんには、何とも身につまされる話ではある。
■プロレス界の現状 かつての「新日本」と「全日本」時代から一変。1999年ジャイアント馬場死去による内部抗争で、三沢が全日本から脱退し、「ノア」を立ち上げ。新日本を解雇された橋本真也(故人)が「ZERO-ONE」を結成し、メジャー4団体時代となる。また、米国で人気の「WWE」が日本でも受け、その影響を受けたエンターテインメント志向が強い「ハッスル」などが興行されている。そのほか、「みちのく」「大阪」など大小40団体以上が活動している。
■三沢さんの死亡事故 ノア広島大会(13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ)のメーンイベント、GHCタッグ選手権に潮崎豪とのタッグで出場。第17代王者・斎藤彰俊、バイソン・スミス組に挑戦した。開始から25分過ぎ、斎藤の打撃を受けた三沢さんは、さらに急角度のバックドロップを浴び、頭部をマットに強打。そのまま意識を失った。専属トレーナーが心臓マッサージを繰り返し、医師が、自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みた。すぐに救急車で、広島大学病院(広島市内)に搬送されたが、午後10時10分、死亡が確認された。
最終更新:6月15日16時58分
4日前に相談…三沢さん、年内引退決めていた2009年6月16日7時13分配信 スポニチアネックス
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090616-00000030-spn-fight 13日の試合で頭部を強打し、頸椎(けいつい)損傷に伴う頸髄離断で亡くなったプロレスラー三沢光晴さん(享年46)が、今年限りでの引退を決意していたことが15日、分かった。三沢さんの参謀役としてノアの創立時から支えてきたリングアナウンサーの仲田龍・取締役統括部長(47)が明らかにした。三沢さんは引退後、起業家になるプランを持っており、仲田取締役は引退させてあげられなかったことを悔やんだ。
三沢さんの急逝後、沈黙を守っていたノアの仲田取締役が衝撃の事実を口にした。この日、東京・有明の事務所を訪れた同氏は、三沢さんが年内で引退し、起業家として新たな人生を送る決断をしていたと明かした。9日に行われた静岡・沼津大会のロッカールームで、引退の期日や引退後のプランを相談されたという。
全日本プロレスで故ジャイアント馬場さんの秘書を務めていた仲田氏は、00年8月のノア創立時から三沢さんを支え「三沢の参謀」とも言われていた。長年苦楽をともにしてきた「盟友」には、三沢さんは心境の変化を打ち明けていた。仲田氏は「
以前からサヨナラ・ツアーをやらないかとも言われていた。自分と奥さんは(引退が近いと)聞いていたんです」と告白。三沢さんはノアが10年目を迎える節目を機に、マットから去ることを決意していた可能性が高い。引退後は会社を立ち上げるなどのプランを持っていたとみられる。
しかし「沼津会談」から4日後の広島大会で、ノアの象徴は相手選手の岩石落としで頭部を強打し、帰らぬ人となった。ツアーに同行しなかった仲田氏は広島に駆け付け、三沢さんと対面。「笑っている顔に見えた」と寂しそうに話した。
18日で47歳になるはずだった三沢さんは地方の試合でも絶対に手抜きをせず、常に全力投球。社長業も兼ね、心身ともに限界に達していた。今回のツアーでは本調子にはほど遠かったと指摘する声もある。仲田氏は「2、3年前に(引退できる)環境を整えてあげないといけなかった。誰のせいかと言われると…」と自分を責めるかのようにつぶやいた。
屋台骨を失った団体の新体制について、仲田氏は「いつかは決めないといけない。落ち着いてから取りかかりたい」と話した。引退を決意しながら天国へ旅立った三沢さんのためにも、今後ノアの土台はより強固なものにすることが求められる。
最終更新:6月16日7時13分
武藤もう言えない“リングで死ねたら…” 2009年06月16日スポニチアネックス
http://www.sponichi.co.jp/battle/special/memorial/2009_misawa_top/KFullNormal20090616082.html 【ノア・三沢光晴さん急死】全日本の武藤が、社長兼レスラーの“同志”三沢さんの死を悼んだ。都内の事務所で取材に応じ
「オレも“リングで死ねたら本望”とか言ってたが、ノアの社員や家族の悲しみが想像できる。そう軽々しく言った自分を改めようと思う」。同じ46歳で、人ごととは思えなかったという。「会話もほとんどしたことがない」と語る三沢さんとの対決は04年にタッグ戦で2回のみ。「夢の戦い、一騎打ちはどうすんだよ」。その思いはファンの願いとともに、はかなく消えた。
馬場、猪木は
あまりリアルタイムではありません。
マジケンカ(笑)の
鶴田 vs 天龍ごろからが
わたしのプロレスの記憶です。
三沢社長はとにかく
全日退団後の印象が強くて
タイガーマスクとかより
わたし的には
圧倒的に”ノアの社長”
というイメージです。
Wiki見てたんですが、
2000年
6月15日 - フロント陣を含めた離脱者全員で全日本に退団届を郵送し受理。
6月16日 - 全日本を退団した選手、スタッフを集めディファ有明にて新団体設立会見。同時に内容証明郵便を全日本事務所を送付。同28日の記者会見で8月5日、6日ディファ有明にて旗揚げ戦を行うことを発表。
7月10日 - 記者会見で新団体名を7月7日付けで「株式会社プロレスリング・ノア」として登記申請したと発表。15日の旗揚げ戦チケット発売日は長蛇の列になり、旗揚げから3戦の計6000枚のチケットが1時間足らずで完売。
8月5日 - 旗揚げ戦開催。メインで田上明と組み小橋建太・秋山準組との60分3本勝負のタッグマッチに登場するも、1本目に秋山の意表をついたフロントネックロックによりわずか2分で失神。
…とか、懐かしすぎです。
あのフロントネックロックは
ものすごい印象でした。
ノア旗揚げ当時は
ファンクラブ1年間無料で
募集をかけたり、
当時としては斬新なオフィシャルブックを
作ったりと何かと話題でした。
>【死因は頸髄離断】医療的なことは別にして、
垂直落下式の技が多くなっている
プロレスでは
やはり頭ガンガンぶつけるのは
よくないです。
前田日明や藤原喜明、山崎一夫のUWFとか
三銃士~六冠の武藤敬司とか、
書き始めたらまた止まらなくなりそうなので
後日にしますが(もしもあるなら)、
とにかく残念の一言です。
ご冥福をお祈りいたします。
参考文献としてあえて書こう、
最狂超(スーパー)プロレスファン烈伝。
いやはや、
涙なくてはよめない
プロレスファンのかなり”痛い”マンガです。
おまけにマンダラケからの復刊では
次元も超えてSFになっています。
あの時、あの時代、
マニアなプロレスファンだった人にだけわかる
悶絶の一冊です。